小島慶子氏
今日のお客様は紀伊国屋書店から著書『<叱る依存>がとまらない』が好評発売中です。

臨床心理士で公認心理士の村中直人さん、こんにちわ、よろしくお願い致します。
村中直人氏
こんにちわ、よろしくお願い致します。
大竹まこと氏
こんにちわ、良くいらっしゃいました。
今回は「叱る依存」でいいんですよね?
不思議な日本語の組み合わせですけれども、このタイトルにはどんな意味がおありなんですか?
村中氏
有難うございます。かなりのパワーワードを本のタイトルにつけたなという自覚はあるんですね、「叱る」と「依存」をくっ付けた・・・。ただ、もちろん根拠はあるんですね、最近の神経科学であったりとか心理学であったりとか、あと私臨床心理士ですので、日々の現場の情報を組み合わせると、叱るという行為に依存性があるというふうに提案してもいいんじゃないかというのがこのアイデアの元ですね。
小島氏
叱るのをやめられなくなっちゃうということですね?
村中氏
そうです、そうです。
自分では止めたい、止めたいと思っていても、叱ることがやめられなくなる状態になっている人がいるんじゃないかという話、まあ実際にいらっしゃるというふうに思っているんですけれど。
ただ一点注意しておかなければいけないのは、私はこの本の中で「依存症」という言葉は一切使ってないんです。だから、新しい心の病を提案したいとか、むしろ逆に叱り続けてしまう人を叱って何とかしたいとか、そういう意図では全くないんです。ただ、現象を理解するためには、こういう叱るという行為を依存というメカニズムから理解することがすごく大事なんじゃないかというところで本を書かせて頂きました。
大竹氏
依存と依存症の違いはどんなところですか?
村中氏
依存症というと、いわゆる精神医学、要するに心の病として精神医学の対象としてきちんと規定されたものということになるんですね。ただ一方で日常でいうと依存というところは、私たちだいたい日常的に何かに依存して生きていることもあるので、もうちょっと幅の広い言葉です。なので、新たにお薬が必要だとか、精神科に行って治療が必要なんだということを言いたいわけではないんですけれども、この二つっていうのは裏側のメカニズムでは共通している部分があって、その意味では「依存」の方ですね、日常的に幅広く存在しているものの範疇の中の一つに「叱る」という行為にも依存性があるぞ、というふうに考えた方がいいんじゃないかなということですね。
大竹氏
むずかしい・・・
小島氏
叱るって、例えば親が子どもを叱るとか、上司が部下を叱る、先輩が後輩を、教師が生徒をとかね、そういう誰かが誰かに対して、そんなんじゃダメだよっていうこと、あなたのタメを思って、・・・というのもあるし、あと今ネットでさ、誰かに対して正義感からこんなけしからんことを言っているやつにはなんか言ってやろうとかっていうのも、クソリブとかいわれるけれども自分のは違うと、これは叱ってやっているんだ・・・っていう人もいると思うんですよね。
村中氏
そうですね、その意味では小島さんがおっしゃったように、叱るという大前提に考えなくちゃいけないのは、まず権力を持っている人が叱ることが多いという構造と、あと叱っている側は正義のままなんですね、正しいことを言っていると思っているというのが原則ということになります。
で、もう一つ、叱るということを理解するのに大事なのは、叱るということの攻撃性だと思っていて、例えば辞書で「叱る」って日本国内の有名辞書でひくと大概攻撃って書いてあるんです。とがめるとか、攻めるとか、強い態度でとかいう言葉がついてあって、じゃあ叱るじゃなくてもいいじゃん・・・って考えたときに、「叱る」以外にも例えば説明するとか、説得するとかいろんな言葉がある中で、「叱る」じゃないとダメなとこってナニ?って考えたときに、やっぱりこの攻撃性のところなんです。じゃあ、なぜ攻撃的かっていうと、相手に何らかネガティブな気持ちになってほしい、それは怖とか不快とか苦痛だとか何でもいい訳なんです。で、そういう苦痛を与えることで、私たちは体感的に人を行動させることが出来るってことを知ってしまっている訳なんですよね。
小島氏
怖い目にあわせれば自分の思うように相手が行動するだろうと・・・。
村中氏
そうです、そうです。っていうのをすごく軽いところ、例えば親御さんがお子さんに言う時も、最初は優しく言うわけじゃないですか、諭すようにいうんですけども、ふざけてるお子さんがいて段々段々声が強くなっていって「もうええ加減にしなさいよ」って言ったら、しぶしぶ片付けはじめる・・・みたいなことって日常的に普通にあることなので、私たちは知らないうちに、あっネガティブ感情を与えれば相手は思う通りに行動してくれるんだということを学習する機会がすごくあるわけなんですね。で、ここに「叱る依存」と私が呼んでいるものの入り口があるんです。
ただ、一方で、叱っている側の願いはほとんど叶わないというか、例えば先に言った片付けできない子にふざけてるから「片付けしなさい」と言ってさせたとして、その場はしたとして、じゃあ次に自発的に片付けしますかと言ったら、せんわけじゃないですか。
小島氏
そん時はやるけどね。
村中氏
そうです、その時はやるけどもやらない。つまり、叱るということによって何か学習するということはほとんど起きないんですね。これは科学的にも説明することができて、ネガティブ感情になっているときの人間の脳がどうなっているって言ったら、前頭前野の
活動が下がるんですね。簡単に言うと、考えられなくなる。
小島氏
ああ、じゃあ、叱られた言うことをきいているように見える人は・・・、もう・・・
村中氏
動物モードのみたいな感じですね。
小島氏
考えてない・・・。
村中氏
そうです。
それこそ、何か小動物が食べられそうになったときに、考えていたら食べられちゃうじゃないですか。あいつ誰やろうって考えたときに、逃げるか闘うかを瞬時にしなくちゃいけない。これと同じことが人間の脳でも起きていると考えられていて、・・・
大竹氏
あとは死んだふりね
村中氏
ああ、死んだふりもそうですね(笑)。でも、とにかくすぐに行動する、深く考えない。でも、例えば片付けしてほしいとか、宿題してほしいでもいいですけど、してほしい側っていうのはちゃんと考えて、計画的にまずここ片付けてこうやってというふうに、先ほど言った前頭前野を働かせて行動してほしいと願っているわけじゃないですか。だけどその思いは届かないわけです。届かないようにしちゃってる訳なんですね。
小島氏
自分でね・・・。
村中氏
そうです。だけど目の前の行動は変えてくれるから、分かんないわけです。「なんでこんなに毎回言ってんのにこの子はいつまでたってもお片付けしないのよ!」って思ってるんですけど、実はそうさせているのは叱っている側だっていう、この構造がありますね。
大竹氏
あのー、いつまで言っても片付けない、叱ってもダメだと、その場だけのことにして終わる・・・、例えばその例で言ったならば、叱らずにどうするといいんですか?
村中氏
そうですね、その話のちょっと前にですね、もう一個叱るということを考えるときに大事なポイントを、そこだけ先に説明させて頂きたいんですけど・・・。
それは、叱ることは叱っている側にとって、どうやら快感の一つであるていう事実なんです。
小島氏
ほう、叱るのは気持ちいい・・・。
村中氏
そうなんです。これもちゃんとした研究がありまして、2004年の『サイエンス』に載った論文があるんですけど、ここにはどんなことが書いてあるかっていうと、簡単に言うと目の前で起こったルール違反を犯したダメな人に対して罰を与える、しかもねこの研究は面白いのはね、自分の持ち出し、つまり自分が損をして罰を与えなくちゃいけない。だから簡単に言うと自分のお金を払って相手を罰するということを選択するかしないかをするわけなんですけど、そうやって人を罰したとき、自分のお金を払ってまで相手を罰したときに、まあ脳科学の研究なので報酬系回路というんですけど、ドーパミンというやつですね。人間が欲求を感じたりとか快を感じたときに働く脳回路の主要部分がすごく活性していて、しかも払った金額と比例してるんですって。
小島氏
えっ!!なに?例えば安い箒を買ってそれでお尻をパシャってやったときの罰よりも、高い箒でお尻をパシャってやったときの方がより叱る側の脳みその中では快感が高いってことなの?
村中氏
箒はその研究では使ってないですけど、簡単に言うと、自分が払ったお金の倍額相手に罰金を与えることが出来るっていう仕組み・・・。
小島氏
ああ、そういう仕組みなのね。
村中氏
だから自分がお金をたくさん払えば払うほど、相手に高い罰金を与えれるという仕組みにすると、高い金を払ってでも、こいつに罰を与えたいという人ほどドーパミンがたくさん出ていたと・・・。
小島氏
そうなんだ!
村中氏
っていうことがわかっていって、しかもこれ2004年に『サイエンス』に載ったことなので、そこからほぼ20年ぐらい経っていてですね、それに関する研究が色々あって、どうやら早く載った論文だけでなくて他にも色々確認できているので、こういう「処罰感情の充足」と本には書いてあるんですけど、悪いことをした人に罰を与えるということがどうやら快感情であるということは、まあ間違いないと言って大丈夫じゃないかっていう話です。
大竹氏
お母さんが、「早く片付けて!何でいうこと聞かないの、片付けなさい!」っと言ったときには、それはお母さんの中ではドーパミンが出て、快感に変わっていく?怒る行為自体が快感になる?ということですか?
村中氏
・・・の場合があり得るということです。
小島氏
上司と部下とかね、先輩後輩とかにはそうなんじゃないかなと思う時があるけどね、なんかこの人怒るのが気持ち良くてやってるんだろうなって、叱るのがー。
大竹氏
まあ、たまに見るけどねえ。
村中氏
もちろん、皆が皆その叱るという行為自体、イコールが「叱る依存」かと言ったら、そんなことはないんです。さっき言ったみたいに、依存という行為は最近このお菓子にはまっちゃってさあっていう軽いものから連続性のあるもので、そこにはグラデーションがあるとは思うんですけど。ただいままで叱るという行為にはそもそも依存性があるということが全然語られてこなかったので、その意味でそういう視点もあり得るぞと思うだけで価値があるんじゃないか・・・。
大竹氏
叱る方はそれなりの正義みたいなものを持ってるからねえ、部屋ん中が片付かなきゃダメでしょうっていう。
村中氏
そうです。そいういう意味では正義の暴走みたいなところの側面があるなあと思っていて・・・。
大竹氏
ああ、正義の暴走・・・。
村中氏
そうなんです。
小島氏
快感、自分が快楽を実は脳でそれで感じているってことは自覚しにくいかもしれませんね。こんなつらい思いをしてまで叱ってあげているのにどうして思いが伝わらないんだろうとかって本人は思っちゃってるけど、実はそれを止められないのは快感が伴っているからなんだ・・・。
大竹氏
それはわかった。
あのう、ちょっと、例えば電車の中で席を譲らない若者みたいなものを怒ったりしてひどい目にあっちゃう人も結構いるじゃないですか。あれも、いまの村中さんのお話しによると、怒ったときにドーパミンが出てるんだということになりますよね。
村中氏
あのう、まずそもそもなんで人間にこんな性質が備わっているのかというところから考えた方がといいと思うんですけど、ある意味において必要なんです。それは何かと言ったら、規律っていうものがないと社会で助け合うことができないし、ルールというのは色んな人がいる中で皆が社会を作っていくために必要なものなので、その規律を違反した人間に対して処罰感情がムクムクと湧いて、ドーパミンが出て、叱りたいと思う感情が出ること自体が別にダメなわけではないはずなんですよね。
大竹氏
そうですね。
村中氏
おっしゃるように、若者がなってない!って思ったときに叱りたいと思うこと、それ自体が社会としてダメという話ではない、なのでこの本の中では叱っちゃダメとは1回も書いてないんです。ただですね、現代社会ってそれが暴走化しやすいと、まだ電車の中でちょっと股広げて、先ほど小島さんがおっしゃったように、それがネットで動画で撮影されて拡散された瞬間に、本来関係ない人たちまでの処罰感情が一気に刺激されて、とんでもない量の攻撃性がその人に集中するみたいなことが簡単に起きやすい時代になっているところはあります。
大竹氏
叱り感情が悪いわけじゃないと、ただ叱ってるときにその人の脳の中にはドーパミンという快感物質が流れることは確かだっておっしゃっているわけね。
小島氏
そこ確認したいんですけど、叱る行為の時に快感になっているのか、それとも叱った結果相手が謝ったり、或いは怖そうにしたり、或いは人から攻められたりっていう相手がひどい目にあったときに快楽が出るのか、どっちですか?
村中氏
さすがですね、小島さん、すごい質問しますね。
あの、結論ね、最初は自分が叱ったことによる変化でドーパミンが出るんです。だから要は片付けしなかった子が片付けし始める、若者が股を広げてたものが股を閉じる・・・、そういうことをしたときに要するに報酬を得たときに出るわけなんですけれども、報酬系回路というのは出るんです。ただし、報酬系回路というのはどんどん使っていると段々報酬を予想したときに働くように変わるっていう性質があるんです。だから、それに慣れていくと今度は相手の変化がなかったとしても、相手が何か悪いことをして、よしよしシメシメ叱ってやろうと思った瞬間にドーパミンが出てくる・・・。
小島氏
あっ、そうなんだ。
村中氏
ていう変化をするもんなんです。
これは叱るだけじゃなくて、報酬系回路というものの基本的な性質がそういうものなんです。
小島氏
最初は結果をみて感じてたのに、そのうちきっと結果が得られるだろうと思っただけで気持ちよくなっちゃう。
村中氏
まあそうですね。厳密にいうとドーパミンが快感物質とは微妙に違ってて、要は欲求をつかさどる物質なんです。何かしたい、やりたい、一丁やってやりたいと思ったときにちょっとワクワクするような気持ちになる、ああいう感じがドーパミンの・・・。
小島氏
じゃあ、「叱る依存」をあえて言うならば、叱っていることをあまり頻繁にやっているうちに、よし叱るぞと思っただけでワクワクするようになってきちゃうってこと?
村中氏
そうですね、ただもう一個あるのは、深刻な叱る依存って多分このドーパミンの作用だけでは起きにくいんです。ここはちょっとそもそもの本家本元の依存症の話になるんですけれど、より深刻化していくときっていうのは、本家本元の薬物依存とかでもそうなんですけれど、そもそもその人がつらい思いをしている方が確立が跳ね上がるわけです。その依存する側の人がです。
小島氏
じゃあ叱る人がってことですね。
村中氏
そうです、叱るでいうならば叱る人がです、薬物依存だったら薬物を接種する人が、そもそも人生とか生活に苦痛を抱えていて、例えば薬物でいうならば特定の薬物を体に入れた瞬間に、その苦しみから一瞬でも開放されたと思うことの依存性って、ものすごく強いです。逆に言うなら、それがない中で、ただ単に気持ち良くなる薬を体に入れただけで、もう一発で依存症になってしまう人っていうのはそう多くないってことが分かっていて、もちろん先ほど言ったみたいに叱る依存を依存症として言いたいわけではないんですけど、構造としてやはり似てて、例えばお母さんが日々別のことでもいいんですけど、すごく余裕がないとかイライラしているとか、例えばパートナーの関係性ですごくトラブルを抱えている、でその時に目の前の子どもが良くないことをする、そこに対して「あんた何やってんのよ」って叱る、で叱るとちゃんとしてくれる、この叱っている側の人はたぶん別に快感とか快楽なんて一切思っていないわけなんですけど、でもその辺でどっかでちょっと日々のつらいことが忘れられたり、ちょっとほっとしたりとか、あるべき姿に戻ったという気持ちになる。で、これの依存性というか、ハマっていく感じっていうのはものすごくエネルギーが強いんじゃないかなあって思ってます。
大竹氏
あのう、よく思うんだけど、怒りの原因はそこにはないっていうことをよく思うんだけど、例えば僕が何かで怒鳴ったとしても、その相手が悪いんではなくて、ここに来る途中に誰かに足踏まれただとか、大雨にさらされたとか他の原因があって、みたいなことは言えるんですか、それは・・・。
村中氏
そうですね、ただトリガーになっているのは、やっぱりその目の前にある規律違反だと思うんです。
小島氏
引き金はね。
村中氏
その背景にあるものと、そのトリガー、引き金になっているものはちょっと分けて考えた方が良くって、もし背景にあるものがなかったら、トリガーの部分の、ちょっと要らんことをしているのを目の前に見たとしても、ぐわぁっ!と怒ってしまうことがなかったかもしれないという意味において、大竹さんがおっしゃった怒りの本当の原因はそこにはないということはあるかなあと・・・。
小島氏
ただ、今の例でいうと、大竹さんが別に普段ね、すごくつらい思いを自分の中にずっと鬱屈して抱えてたわけではなく、たまたま誰かに足を踏まれて何だったんだろうあの人なあ・・・と思った後見た人に、イライラして当たっちゃったというのは、それこそ当たっちゃったぐらいなのかもしれないんだけど、もし大竹さんが普段から心に痛みや苦しみを抱えていると、それとはもっと違う意味が出てくるってことなんですか?
村中氏
可能性が高くなるってことだと思います。
小島氏
本来の痛みを・・・
村中氏
・・・代償すると言いますかね、それを満たすために誰かを叱る対象を探してしまうみたいなことはあると思います。
小島氏
じゃあ、その叱るの、いまこれ聴いている人の中でね、自分が誰かを叱っちゃうのを多いなと、これ叱る依存かなと、じゃあ叱らない方法で何かうまくできないかなあと思ってたら、どうすればいいんですかね。
村中氏
いまの話の逆で言うと、まずトリガーと背景の背景の問題があって、どうしても子どもがちょっとしたことでとか、部下がちょっとしたことで叱る気持ちを抑えられないという話だとすると、大きくは2つですね。
まず1つは、そもそもの背景の根本的な対処をすべきというところ、もう一つはトリガーをトリガーでなくすとか、引き金を引き金でなくすというか、まあそういうことを見ないようにするというのが一番簡単なことでしょうし、私が本の中で言っているのは、そもそも自分が思うあるべき姿と、実際がずれているからトリガーになるわけなので、そのあるべき姿の方を見直そうというのを本の中に書いているんです。
そもそも片付けするってそんなに大事なこと?とかっていう話とか、えっ?学校の宿題を今日せえへんことがこの子の人生でどこまで大事なの?っていう話ですね。そっちの方を柔らかくすることで、トリガーがトリガーでなくなっていくというのはあるので、根本的なのはその変だとは思います。
小島氏
ああー(ため息)
大竹氏
ご本に叱るという行為がとても過信されているっていうふうにお書きになっていますね?どういうことですか?
村中氏
先ほどお話ししたように、基本的には判断力とか思考力とかしっかり考える力を奪うわけなんです、ネガティブ感情というのは。だけど、行動自体は変えることが出来るから、結局何か学ばしているつもりになってしまうということが過信の原因だと思うんです。でも逆に言うと、危機会入力は高いんです。
大竹氏
うん?
村中氏
危機介入っていうのは、明らかに危ない状況、例えば、それこそいまにも道路を飛び出しそうとか、がけから落ちそうというときに、「あっ、危ない!何やってんの、止まりなさい!!」って、こういういま目の前にある危機に対して、とりあえず行動を変えてもらわなくちゃいけないときに使う行動としては、非常に簡便で効果が高い。
大竹氏
なるほど。
村中氏
だけど、絶対忘れちゃいけないのは、それだけじゃあまたやるってことなんです。
ここが切り分けされてないんですね。とりあえず目の前を止める効果はあるけれども、再発防止の効果がないということがあまり知られていない、結局、「何回言ってもこの子危ないことをつづけるのよ」ってなっていくという・・・。で、何回言ってもと言ってる人の、じゃあいつ言ってるんですかっていたら、だいたい危ないことをした後にしか言ってないです。
これ私、「前裁き」って言ってるんですけど、そもそも悪いことをした後になんぼ言っても、この人は嫌な気持ちになっているので理解力が下がってるんで入らない訳なんです。だから、よく私が言うのは、叱っちゃダメなんじゃない、けども叱る前にあなたが何をしたかが問題なんだ・・・、こういうのを「前裁き」というふうに言っていて、叱る人が権力者だということを前提にすると、叱らなくちゃいけない状況をつくっている時点で、権力者側の失敗ですよね、っていう感じがしています。
小島氏
ほうー。
大竹氏
叱られる側はその時点で閉じてるからね。閉じてる人に何言ったってムダだもんね。そうじゃないときに、もっとよく説明するとか説得するとかってことが必要ってことですか?
村中氏
はい、ほかにももっとちょっと難易度のステップを踏んであげるとか、色んなやり方はあると思います。
小島氏
そうですか、思い込みをね、こうであらねばならないという相手への思い込みを捨て、叱れねばならないような状態が起きないように、普段から出来ることを探すというのは私もヒントになりました。
有難うございました。
怒るという行為には依存性があるのではないか、という疑問から始まったご本、「叱る依存が止まらない」、紀伊国屋書店から好評発売中、なぜ「叱る」という行為がエスカレートするのか。叱っちゃだめだから叱らないのではなく、気が付いたら叱っていなかった・・・になるには一体どうしたらいいのかが詳しく書かれています。
大竹氏
ちょっとひと昔前までは、怒るのはダメだけど叱るのは良いみたいな・・・
小島氏
ああ、ありましたね、そんな言い方ねえ。
大竹氏
もうちょっと研究が進んできたら、叱るっていうのも依存して、叱る方が快感になっていくっていう話から、考え直さなくちゃいかなくちゃいけないっていう話だと思っていいんですか?
村中氏
はい、おっしゃるとおりです。
その意味では叱るも怒るも何も変わらないということです。
大竹氏
全然変わんない?
村中氏
変わらない。//


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