高取城は岩村城(岐阜県)や備中松山城(岡山県)とともに日本三大山城のひとつに数えられている山城。標高583mで城下町との標高差は400m以上と、近世(戦国末期〜江戸時代)に作られたお城では特に高い場所に作られた山城。そのため眺望はよく、条件が良ければ大阪や六甲山まで見ることができる。また高取城の場所が高すぎたために、江戸時代の城主は城下町で政務を行なっていた。
現在の高取城には建物は残っていないが、本丸や二の丸の石垣はキレイに残されている。
高取城の歴史は南北朝時代に遡る。
南北朝時代になると、南朝側の越智氏と北朝側の筒井氏とで大和国の支配権をめぐって対立するようになり、こうした南北朝時代の争いの中で、高取城は越智邦澄によって貝吹山城の支城として築城されている。奈良と吉野を結ぶ芋ヶ峠を監視する目的で築かれ、当初は小さなお城だった。
後の秀吉の時代になると、筒井順慶が自身の城・大和郡山城を中心にしたお城網を整備。高取城も支城の一つとして改修・拡張された。
関ヶ原の戦いは徳川家康の東軍の勝利で終わり、東軍に味方していた本多俊政は高取城と領地を保証されている。江戸幕府が成立すると高取藩として、本多氏が治めていった。しかし俊政の跡を継いでいた本多政武は跡継ぎがいないまま亡くなり、高取藩は取りつぶしにされてしまう。高取城は一時的に幕府の直轄領となっていたが、その後、徳川家譜代の旗本・植村家政が大名となり、高取城主になる。
ここから明治時代まで14代にわたって植村氏が高取城を治めていく。植村氏は幕府から特別な許可をもらっていました。「常普請」といって、「いつでもお城の改修や修理を行なっても良い」というものです。
明治時代になると、廃城令で全国のお城が「存城処分」と「廃城処分」に分けられた。高取城は廃城になり、建物の大半が周辺の寺院へと売られていった。
そして廃城の18年後(1891年)には天守を含めた高取城のすべての建物が取り壊されていった。
戦後の1953年には高取城跡が「歴史上または学術上価値が高いと認められ保護が必要なもの」と認定されて国の史跡に指定されている。


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