千葉雅也氏著「センスの哲学」抜粋

  • 文化資本の形成とは、多様なものに触れるときの不安を緩和し、不安を面白さに変換する回路を作ることである。
  • センスとは、「直観的にわかる」ことで、いろんなことにまたがる総合的な判断力である。直観的で総合的な判断力。そして、感覚と思考をつないだようなものである。
  • 「絵を描くセンス」と言うと、白紙の上に線を走らせて、ゼロから作り出すセンスが問われていると思うかもしれません。けれども、何もない状態から作ることは、美術でも音楽でも、ありません。知っている作品とか、見たこと聞いたことがあるもの、何か印象などの素材があって、それを記憶からなんとなく選び、組み合わせて変形し、そこから飛躍させて作品にするわけです。想像行為の根底には、「選ぶ」ということがあります。
  • 鑑賞サイドにいると、多くの人は意味ばかりに気が行ってしまう。しかし、ものを作るときには、意味が生じるより前の、ただ材料を集めて組み立てるという「意味が生まれる前の段階」に目を向けることになる。
  • 子供は最初、自由奔放に手を動かして、大人の目から見れば抽象絵画のような、躍動する線を描いたりします。その後、はっきりした形を描くようになり、意味ができてきます。上に三角形を、その下に四角形を描けば「おうち」だとか、丸の中に三つの点を描けば「顔」だとか。これは言語の発達と関係していて、何かの名前に対応する絵を描くようになる。絵が「記号」になっていき、以前の爆発するような線のエネルギーは抑圧されていく。 芸術家にはよく、子供のような自由があると言われますが、それは、記号化する以前の自由を持っている、そこに戻ることができる、ということでしょう。
  • モデルの再現から降りることが、センスの目覚めである。言い換えると、再現思考ではない、子供の自由に戻る。それがヘタウマです。
  • センスが悪いと言うと、能力の問題のように聞こえます。それに対し、センスが無自覚である、という言い方をしたのは、姿勢を変えることでセンスに自覚的になれると言いたかったからです。モデルはあるにせよ、再現思考ではなく、その手前、つまり子供的な手前において、ヘタウマでいいから自分なりに試してみる。
  • 大きく言って、同じような刺激が繰り返される規則性、そしてそれが中断されたり、あるいは違うタイプの刺激が入ってくるという逸脱。この「規則と逸脱」の組み合わせでリズムはできています。同じことですが、言いかえると「反復と差異」がリズムです。
  • 音楽であれ美術であれ、インテリアの配置であれ、料理であれ、その「リズムの多次元的な=マルチトラックでの配置」が意識できることがセンスである。その配置の面白さが、センスがいいということになる。
  • まずは、ものごとを意味的にどうするかではなく、そこから離れて、デコとボコ(凸と凹)の問題、つまりリズムの問題として、ただ「どう並べているか」という意識でものに関わり始めたら、もうそれだけで、最小限の一歩としてセンスは良くなっているち言いたいと思います。それだけで、何かのモデル=意味を目指して、それが成功する=上手い、不完全になる=下手という対立から脱却して、別のゲームを始めているからです。
  • より正確に意味を実現しようとして競うことから降りて、ものごとをリズムとして捉える。このことが、最小限のセンスの良さである。
  • 「センスが目覚めてくる」というのは、これは何だろうとか、こんなことをして何になるんだという理屈の次元を離れて、そこにある要素の並びに体が反応して、そのリズムに乗って体が揺れてくるみたいな、意味がなく楽しい、つまり「強度的」なノリに入っていくことです。
  • 変化しながら、そのなかに、存在と不在の明滅がかすかにある。
  • センスとは、ものごとのリズムを、生成変化のうねりとして、ないかつ存在/不在のbeatとして、という二つの感覚で捉えることである。
  • どんなジャンルでも、はっきりした対立関係ーその究極が、存在/不在ですーに注意が向くか、もっと微妙なところを見るか、という二つの観点がある。

   ・ハラハラドキドキ → ビート:はっきりした対立関係、存在/不在

   ・微妙な面白さ → うねり:生成変化の多様性

  • ビート的にハラハラドキドキを楽しむのと、微妙な中間色的なところに分け入っていく、うねりの楽しみという二つのアプローチがおちらも重要なのです。
  • 「いないいないばあ」という遊びを、1つの原理として説明したいと思います。何かがない=隠された状態から、露わにされた状態へ。「ない」から「ある」への転換。この遊びを子供は喜ぶわけですが、それは人間の根本に触れているからだと思います。「いないいないばあ」は、根本的な「不安と安心」の交代を表している。
  • リズムとは、不在/存在を背景にしているが、そこからの自立そのものである。
  • 「いないいないばあ」における不在/存在、0と1のビートは、不安と安心の交替ですが、それを、複雑なうねりを成すリズムによって上書きすることで、乗り越える。リズムは結局は0と1に帰着するのではありません。リズムとは新たな次元であり、人間の根本的な寂しさから自立して、文化と社会の構造を作っていく。だから私たちは遊びや音楽や美術などを必要とするのです。
  • 丁寧にコーヒーを淹れることは、コーヒーを淹れる時間をサスペンスにしている。ただコーヒーメーカーのスイッチを押して待つのではなく、自分で丁寧にお湯を注いで、コーヒーをじっくりドリップする。わざと面倒なことをして、時間をかけるから「丁寧」なわけですが、それは目標達成を遅延し、その「途中」を楽しんでいるわけで、まさにサスペンス構造です。…(中略)…コーヒーメーカーという便利な機会は、コーヒーを淹れるという目的を果たすだけ。それに対し、自分でコーヒーを淹れるときには、まず、お湯を注いでいって、少しずつ豆の表面にお湯が染みていく。乾いた状態から染みていくという状態の変化、これは大ざっぱおに言えば、0→1です。しかし、そのときには渦巻ができ、泡が生じ、湯気と香りが立ちのぼるー形や色、温度、香りといった複数のパラメータにわたる複雑なうねりが展開し、それこそを楽しむことになる。だから、0→1であると同時に、それ以上に絡み合ったったリズムだということが大事なんですね。だんだんとコーヒーが抽出されていき、コーヒーがない=0から、ある=1へと移行する。コーヒーの液体は豆から出てくるのだから、豆の中に「伏せられていた」とも言え、それが次第に「明らかに」されていく、という意味で、これも「いないいないばあ」の一種なのですが、先ほど説明したように、「いないいない」と「ばあ」の0と1だけが重要なのではなく、そこに絡まってくる多様なうねりによって、なにか楽しさを感じるリズムになるわけですね。このように、目的達成を遅延し、余分なサスペンスを楽しむことが、丁寧に生活を楽しむことだと言われたりする。時間をかけて、途中で展開されるリズムを味わう。ただ、それが楽しい時と面倒な時がある。あらゆる時間でそんなふうにやっているわけにはいかないので、適当に済ませることと、時間をかけたいことを織り交ぜて生活することになる。
  • 芸術作品とは、目的を果たすための道具ではありません。それ自体として楽しまれるもの、すなわち「自己目的的」なものが作品であり、「サスペンス=いないいないばあ」の遅延が作品のボリュームなのです。
  • 部分をごく即物的に見る、つまり意味からリズムへ、というのは、立派なものからささいな日常へ、権威から民衆の方へ、という流れであり、その意味でモダニズムなのです。
  • リズム=ただの形、色、響きなどは、脱意味的であり、そこに注目する見方を「フォーマリズム」と言います。…(中略)そのときには、フォーマリズムの極端化をやめて、意味はわかることもまた重要だ、というごく普通の感覚をある程度取り戻す必要があります。
  • …(前略)良いところもあるし、面白いところがあればいら立つところもある。トータルに考えて、やっぱりこの人は好きだと思こともあれば、好きじゃないと思うこともある。人間のあり方というのもデコボコであり、リズムです、それはいつも一定ではない。状況によって、関わり方によって人というリズムは多様に生成変化するわけです。しかし大きく結論するのを控えて「小意味のうねり」を感じることには、難しさがあります。というのは、それを言葉にするのが難しいからです…(中略)じゃあ、どうしたらいいか。ある程度の言葉数をかけて表現できるように練習する必要がある、ということになります。
  • ひとことで言えないから、わからなかった、要するにどういう意味?ということになりがちだが、その先へとセンスを開いていくには、小さなことを言語化する練習が必要である。
  • 日常のささいなことを、ただ言葉にする。それはもう芸術制作の始まりです。
  • ChatGPTに何か質問するとします。その質問文を「プロンプト」と呼びます。たとえば、「芸術においてリズムとはどういうものですか」というプロンプトを与える・このプロンプトは文であり、言葉の集まりです。で、複雑な話になるのでボカシて言いますが、この文に対して、大量の文例をふまえて、「芸術」や「リズム」の次にどういう言葉が来るのが高確率なのか、という計算をします。そうして、次々に言葉が出てきて回答が生成されるわけですが、「次に来る言葉として高確率なのは?」という計算を繰り返してその結果が出てくる。 ちなみに、一番高い確率のものだけを選んでいるのではないそうです。むしろ、次に来るものとして低めの確立の言葉をときどき出すようにしている、そうすると、リアルになるらしいんですね。それがどういうことなのかは、よくわかっていないようです。 ただ直観的にはわかる話だと思います。文例というのは、これまでの慣習、よくあるパターンということで、そこからやや外れたものが出てくるときがあると、リズミカルになるからでしょう。規則性からの逸脱が起きると、人はイキイキとしたものを感じる。
  • ChatGPTは、意味がわかる文を生成します。しかしその意味は、ただの近さ/遠さで選ばれているだけ、すなわち、言葉同士の距離というデコボコの形でしかありません。言い換えればただのリズムなのです。だからノリだけのやつなのです。ChatGPTが生成する「意味がわかる文」とは、脱意味化されたリズムである。 意味というものを、身も蓋もなく言葉の距離関係だけにしてしまうと、「意味を脱意味化してただのデコボコとして捉える」ことが可能となるのです。
  • センスとはものごとを意味や目的でまとめようとせず、ただそれを、いろんな要素のデコボコ=リズムとして楽しむことである。
  • そしてセンスとは、リズムを捉えるときに、(1)欠如を埋めてはまた欠如し、というビート、(2)もっと複雑にいろんな側面が絡み合ったうねり、という両面に乗ることである。
  • さらにセンスとは、意味を捉えるときに、それを「距離のデコボコ=リズム」として捉え、そこにやはり、うねりとビートを感じ取ることである。
  • 大きく言って、生物には、身の危険の可能性があり、予測誤差=危険のサインに備えている。だが、ちょっとしたことに反応していては自由に動けない。だから、「予測誤差が起きても、まあ、通常は大したことではない」というカバーをかける。ある反復の後に差異が来る、という外れの経験がリズムになって、平気になる。リズム化することで、予測誤差を丸め込む。それは経験における慣れ、習慣化であると同時に、リズムの遊び―「いないいないばあ」など―によって補強される。
  • 生物としての安定志向を超えて、不快かつ快である「享楽」をマゾヒズム的に求めてしまう自動運動=死の欲動があり、それは通常はリズムの中に収められているが、ときにリズムのタガが外れるまでに激化し、死を書けるような行為におよぶこともある。
  • ゴダールの映画でも、その不合理なショットに飛躍、一見つながっていないようなモンタージュというのはまさに予測誤差の連打であり、そこに、痛みかつ喜びのようなものを感じる。つまり「痛気持ちいい」というマゾヒズムです。それがゴダール的かっこよさだというわけです。
  • 日常生活というのはできる限り平穏であってほしくて、家に帰ったら巨大なトカゲとかがいてほしくないわけですよね。けれども人は、ただ平穏である以上の刺激を、何らかの「程度」で求めている。さらに言えば、危機的事態になったら、(中略)人間は生きていくためにその状況を享楽するようなモードになり、積極的に物語化を行うこともあるでしょう。
  • ピアノには、1オクターブに12個の鍵盤がありますが、すべてを好きに使っていいとして、適当に弾いても十分に音楽になります。それが音楽に聴こえないのだとしたら、クラシックとかポップスの音の成約を基準にして、そこから外れた並びがあるからダメだ、という判断をしているわけであって、問題なのはその音の並びがそれ自体として音楽かどうかではなく、自分が「何を音楽だと思っているか」であるわけです。だから、その枠組を変えてしまえば、なんでも音楽になると言えます。
  • ジャズもまた、クラシックでは許されなかった音の使い方が許されているジャンルです。つまりクラシックよりも拡張された音楽だと言えます。ところがジャズにもまた、こういう並びを外すとジャズらしく聴こえない、というルールがあります。ジャズにはジャズの制約があるわけです。ポップスにもいろいろなタイプがありますが、やはりポップスの制約があります。
  • 極端なランダム状態を最大値として考えたときに、そこにいろんな制約をかけていくことでいろんなジャンルが成立する。
  • 芸術において何が予測誤差かは、最初にどういうものを「予測の範囲として普通」だと思っているか、思い込んでいるかに依存するわけです。
  • 抽象度を上げると、つながっていないものがつながるわけです。つまり、具体的なものの具体性に縛られているために、つなげられる範囲が狭くなるんですね。それに対して、抽象度をあげていくと、より多くのものがフォルダに入ってくる。
  • 具体的な必要性とは関係なく、ただ抽象的に、形だけでつながりを成り立たせているわけです。抽象化のやり方は色々可能で、どういう抽象的な共通性を考えるかで、何をどう並べてもつながるということになる。さらにこの考え方を推し進めると、ランダムに何がどう来ても、最も抽象的で巨大なつながりがある、と言うことができます。それは、「存在する」という意味でのつながりです。
  • 多くの人は、生活と結びついた具体性を中心に考える。それは自然なことです。そこから離れると予測誤差にびっくりして意味不明だと思ってしまう。あるいは、特定の芸術ジャンルのお約束ーそれは歴史的に、ある時期成立したルールですがーから外れているとダメだとか、技術がなってないといった判断になる。
  • 基本的には、生活実感にもとづく意味性と、特定ジャンルのルールにもとづく意味性の二つが組み合わさって、人が「普通」だと思うものが成立しており、そこからずれると人は拒絶したりする。そこから、何かを並べたときに、つながるものとつながらないものがある、という認識が出てくることになる。だからまず、何をどう並べてもつながりうるし、すべてはつながり方の設定次第なんだと、気分を最大限に開放してもらいたい。そのうえで、どのように並べてもいいという最大限の広さから、面白い並びをするために「制約をかけていく」という方向で考えてみましょう。
  • とはいえ、人間には生物的なベースがあって、生命維持、社会の運営、生殖などに関わる、何を大事だと見なすかの基本的傾向があるのでしょう。ただそれが、人間の場合は複雑に変形され、象徴化された形になっています。社会的動物としての傾向が底の方にありつつ、それを変形した上部構造として、さまざまな領域での「こうあるべき」が成り立っているのだと思います。
  • そのように生活的基盤を認めた上で、芸術的なものを考えるには、最大限に拡張して、何でもつながるという一番広い平面を用意してみてください。まずはそこに立つわけです。
  • では、全芸術と生活において、面白いといえるような並び=リズムとは何なのか、それがわかること、それを作り出せることが、センスの「良さ」であるわけです。
  • リズムが面白いとはどういうことでしょうか。基本は、反復があって逸脱があること、です。同じことですが、言い換えると、規則があって逸脱があること、です。差異=逸脱に「あれっ」と反応するわけです。そこが刺激になる。せすが、前提として反復がまず大事で、パターンを判別することが必要です。
  • 面白いリズムとは、ある程度の反復があり、差異が適度なばらつきで起きることである。
  • 完全に規則的ではないし、まったくランダムでもない。そういうバランス。これが、おおよそ「美」と呼ばれるものでしょう。ふるい美学の理論において、美は「調和」という言葉と結びつけられますが、それは、反復と差異の調和だと言えるでしょう。
  • 差異とは予測誤差であり、予測誤差がほどほどの範囲に収まっていると美的になる。それに対し、予測誤差が大きく、どうなるかわからないという偶然性が強まっていくと崇高的になる。
  • 反復と差異のバランスが崩れ、予測誤差が崇高的に大きくなる。そのような「崩れ」に芸術的自由を見る。これは、美としての良さに加えて、センスの良さのもうひとつの定義だと思います。言い換えると、これは偶然性がどのくらい働いているかという問題です。偶然性がほどほどなのか、それとも強く働いているかで、美と崇高のグラデーションを考えるわけです。
  • 偶然性にどう向き合うかが人によって異なることがリズムの多様性となり、それが個性的なセンスとして表現される。
  • しかし、もうひとつの問題がある。反復があって差異があるわけですが、反復の方はどうなのか。(中略)生まれたばかりの状況に戻れば、外の世界には不快な刺激が溢れていたわけです。そのなかに、反復を見出していくことで、人間は安定した存在になっていく。その意味で、一人の人間が生きていけるようになるとは、反復をどう形成するかであり、それと差異がセットになって、人間は「リズム的存在」として生きることになる。
  • こうでなければいけないというモデルに近づけようと、きっちり合わせることを目標にしてしまうと、自由がなくなって窮屈になる。センスの良さというのは「余り」だと思います。(中略)そこで、偶然性に開かれる練習が必要になってきます。服を選んだり、部屋に置くアイテムを買うときの好みというものも、無自覚なうちに硬直化していることがよくあります。それをほぐして、もっと自由な選び方ができるようになるには、自分自身に向き合って、自分で自分をマッサージするような取り組みが必要でしょう。
  • 偶然性と、それに対してどう秩序を作るかが、いろんなことがらにおいて問題になる。おおきな方針としては、次のようなスタンスを提案したいと思います。 自分に固有の、偶然性の余らせ方を肯定する。
  • 目指すものへの「足りなさ」をベースに考えると、それを埋めるようにもっと頑張らなきゃという気負いが生まれ、偶然性に開かれたセンスは活性化しません。それに対して、「余り」をベースに考えれば、自分の理想とするものにならなくても、自分はこういう余らせ方をする人なんだからいいや、と思えるわけです。それは自分に固有の足りなさだとも言える。ですが、それをもっとポジティブに捉えてみる。その方がより創造的になれると思います。
  • 何かをやるときには、実力がまだ足りないという足りなさに注目するのではなく、「とりあえずの手持ちの技術と、自分から湧いてくる偶然性で何ができるか?」と考える。規範に従って、よりレベルの高いものをと努力することも大事ですが、それに執着していたら人生が終わってしまいます。人生が有限です。いつかの時点で、「これで行くんだ」と決める、というか諦めるしかない。
  • 人生の途中の段階で、完全ではない技術と、偶然性とが合わさって生じるものを、自分にできるものとして信じる。
  • 芸術、そして生活の芸術的な麺をよりたのしんでもらいたいガイド役として、僕は、ピアノを弾くとか、絵を描くといったことを、それおれの人生のなかに固有の仕方で位置づけることは、プロが正統にジャンルの規範を満たすことに劣らない、と主張したいのです。
  • 芸術に関わるとは、そもそも無駄なものである時間を味わうことである。
  • 答えにたどり着くよりも、途中でぶらぶらする、途中で視線を散歩させるような自由な余裕の時間が、芸術の本質です。
  • 芸術になじむには、いろんなアーティストのいろんな作品を見ることが大事です。ものを限定するやり方にはいろいろあるということ、つまり、「有限性の多様性」がわかるからです。それによって自分の生き方が柔軟になっていく。自分の生活においても、楽しみを見出だせるポイントはもっと多様だということに気づくでしょう。
  • ゲームにせよ、芸術的な宙づりにせよ、人間にとって楽しさの本質というのは、ただ安心して落ち着いている状態ではないわけです。楽しいということは、どこかに「問題」があるということです。漠然と問題があって、興奮性が高まっていることが、不快なのに楽しい。楽しさのなかには、そのように「否定性」が含まれている。普通は、否定的なものは避けようとするので、このことは意識に登ってきません。しかし、芸術あるいはエンターテイメントを考えるときに、これは非常に本質的なことです。
  • センスは、アンチセンスという陰影を帯びてこそ、真にセンスとなるのではないか。

だとしたら、みすぼらしく生活感がにじみ出ているようなあの狭い空間にこそ、そもそも、すべての本質があったのではないか。そこに住む誰かの、その特異性の「問題」が。

  • どうしてもそうならざるをえない問題的なものが芸術と生活にまたがって反復され、変形されていく、人が持つ問題とは、そうならざるをえなかったからこそ、「そうでなくてもよかった」とういう偶然性の表現でもある。問題が繰り返され、何かひとつの塊に見えてくるほどにそこから、果てしない広がりとして偶然性がまばゆく炸裂する。
  • 食事をともにすることは、解釈を異にする者の間に緩衝地帯を作り出すことです。食事はその一部ですが、広く行って「社交」という実践にはそういう意義があります。

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